なぜ皆の方を向いて回向しないのか?

皆さんこんにちは。

あまねです。

ご縁あっていまこのページをご覧の皆さま、

本日もお読みくださり。

本当にありがとうございます。

怒涛の整理収納デーが円さんのお休みとともに一時休みになり(休んでいてはいけなのだけど)昨日は溜まっていた事務仕事をこなしました。

そして今日は遠方へ法事に行ってきました。

法事の前の法話でこんな話をしました。

「1周忌、3回忌でとなるお経の違いはあると思いますか?
 実はないんです。同じ仏説阿弥陀経というお経を唱えます。
 なんのために唱えるかというと、僕が亡くなった人に極楽の様子をお聞きするためにです。
 僕もまだ死んでないので行ったことのない極楽がいったい本当にこの阿弥陀経に書かれた世界の通りなのか、
 それを教えてもらうためにこうしてお年忌はなくなった人と面と向かってお勤めを通じて対話しているのです。
 皆さんも是非僕のその対話を一緒に見守って下さい。」

他の話もしたのですが、僕のなかではそういう説明が法事のお勤めの意味としては今はしっくり来るなと思いました。

今日はそんな思いでお位牌と遺影の前でお勤めしているととてもあたたかく包まれているような気持ちになりました。

そんな僕と亡き人との対話を見守りながら、自分自身は亡き人に対する本当の気持ち、頭で考えた気持ちではなくて自然と湧き上がる感情に寄り添ってあげることが法事の姿じゃないかと、教義とは違うのかもしれないけど今日はそう思いました。

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