僕たちは無能なんかじゃない愛に生きろ!

皆さんこんにちは。

あまねです。

ご縁あっていまこのページをご覧の皆さま、

本日もお読みくださり。

本当にありがとうございます。

1月の末から突如書き始めたこのブログですが、今の所毎日書き続けていられます。なぜ書き続けられているかというと、自分が書きたいことを人の目を気にせず書いているからじゃないかと思います。毎日生きているとなにかしらの気付きがあるわけで、それを公開するかしないかだだそれだけのことじゃないかと思います。

でも、見られること読まれることを意識しちゃうとその自分の気づきをストレートに書けず頑張って書いてしまったり書けなくなってしまうんでしょうね。なので、このブログは自分のことだけを意識しています。

さて今日は以前も取り上げたケシーさんのブログの話

今回のブログの記事はこちら

そこに出てくるフォトンの話は、下野さんの瞑想会でも出てくるのですが、そこでは聞いていなかったこともあり、さらにケシーさんが今の社会とリンクさせて書いてくれているので余計によく分かりました。

自分が怒りを感じるとその矛先の人にエネルギーを譲渡してしまう。いきなり切れたりする人って自分の欠乏感をそうして埋めようとしてるんだなと思いました。

そうならないために何が出来るかといえば自分のエネルギー漏れを自分で防ぐしかない。

法然上人はみなに「そのままでいい」を与えてきた人だと思っているのですが、やはりそうだったんだなと思いました。

Twitterでお坊さんのツイートを読んでいるとその博学さに尻尾を巻いて逃げたくなるときがあります。

僕は自分の人生の中で今の時点で一番大きな体験はなんだったのかというと「こんなことをやってきた自分のことは最低なやつだ」と認めると同時に、そんな自分のことを許すことが出来たときです。

別に浄土宗のお坊さんでなくてもそのことは伝えていきたい。そしたら浄土宗の法然上人の教えを通してもそれは矛盾しないことに気づいたのでした。

さっきのブログでケシーさんがお父さんと一緒にパチンコにいくエピソードがあるのですが、ものすごく真理を語っていると思います。

昨日の僕のパスタの話みたいに。